掲題についての哲学対話に参加した。
やはり、かわいいは目下のものやある種の落ち目が見られた者に使われるようだ。
たとえば、通常目上の者や欠点のない者にかわいいと思わないという意見が聞かれた。
かわいいは、
顔映ゆし(かわはゆし):顔が赤くなるくらい恥ずかしい
といった語源を持つことも、現代においてある種かけたものに対してかわいいという言葉が使われる事に関係しているのかもしれない。
以前読んだ入戸野宏氏の書籍で、かわいいと思う対象の特徴の調査結果が紹介されていた。
そこではまるい、顔が大きい、ふわふわなどの特徴が挙げられていた気がする。
かわいいにも一般性があるらしいということをそれを根拠に述べようとしたが、記憶が曖昧すぎて無理だった。やっぱ読書ノート大事だわ。
あと、かわいいはヤバいみたいに色々な場面で使われるという指摘もあった。あとエモいも。
昔だと をかし とか あはれ とか。
をかし は情緒があって良いみたいなイメージ。用例としては『枕草子』で○月×日何々がをかしだった、的な日記がひたすらに続いていたことが思い起こされる。
あはれ なんかしみじみ良さが内面から湧いてくるような印象がある。ああ晴れとか天晴れも関係してるんだったか。
『世界哲学史6』では本居宣長がもののあはれを以下2つに要素分解しているのが紹介されてた(たぶん)
⒈物の心を知る
花を見てキレイだなと思う
2.事の心を知る
可哀想な人を見て可哀想だなと思う(喜びのケースでも同様)
もののあわれを知る物同士はお互いに思いやり合えるからの平和な世の中になると宣長が主張していたんだ、的なことが 『世界哲学史6』では紹介されていた。
哲学対話は手ぶらで行くよりも、なんか勉強してから行った方が、新しい知識の定着の場として活用出来るから良いかもと思った。人には推奨しないが。哲学対話の本質から外れた活用法な気もするし。
あと心理的安全性が担保されてる場を選ぶのが大事だな。
『科学的な適職』ではGoogleの社内調査の結果を引いて、仕事でもそれが大事だって言ってたなぁ。
終わり